※この作品は小泉八雲著の『怪談』に収録の『耳なし芳一』の設定に基づいた二重パロディとなっております。苦手な方はご注意ください。

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三人宴 〜 十五夜 〜
(後編)
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十五夜の月を楽しむ方法はひとつではありません。目で楽しむ以外にも、あたりに響く虫の音、風の音、そして気の置けない人々との語らいとて重要な要素のひとつなのです。
久しぶりに会う親子は存分にそれまでの話に花を咲かせていました。母は何度か酒の替えを持ってきましたが、やがて先に床についたようです。
月はもはや中天に差し掛かっており、周りで群れる雲の色合いもまた、見事です。
夏ながらどこか涼やかな気配が漂う夕べ、まさに絶好の月見日和でありました。
快斗は普段ならとうに床についている時間でありますが、まだ許されて二人の間に座っていました。
長い間、話にのみ聞いてきた血の繋がらない兄に会うのは最初こそ怖いやら緊張するやらで何が何やらわかりませんでしたが、こうして隣に寄り添っているとそんなことは忘れてただ優しく慕わしい兄に思えます。
またその目が盲であるとは気がつかないほど、兄のちょっとした動作は流れるように滑らかで、その瞳を閉じているとは思えないほどでした。


「そういえば、快斗はまだ新一の琵琶を聴いていなかったな。聴かせてもらいなさい」
そう盗一が言ったのは子どもの快斗を交えた宴がそれなりに盛り上がった頃でした。その言葉に、酒をほんの一口飲んで顔を紅くしている快斗を大いに喜ばせる結果となりました。
「ぜひ聞きたいれす」
もう呂律がまわっていない快斗に、こちらは少々頬を染めた程度の新一が困ったように笑います。
「それならもっとはように言ってくれればよろしかったのに。もう手元が少々怪しい・・・間違えたなら酒の所為ということにしてください」
そう言いながらも傍らに置いてあった琵琶をあっという間に構え、軽くひと鳴らし。

びぃいいん・・・・・

響く音とともに、琵琶を持つ新一の空気が変わりました。
背筋をすっと伸ばした新一が、固く目をつぶったまま少しも迷わぬ手つきで琵琶の上に指を滑らせました。
思わず息を呑みます。
張り詰めたような緊張感の満ちた、その一瞬の静寂を今度は美しい旋律が破りました。
自在に琵琶を操る白い手が激しく動き回ります。
あたりの虫さえ鳴きやみ、その琵琶に聞き入っているかのように琵琶の音だけが庭に響きます。
月の光を背に受け、新一の表情は良く見えません。
しかし動き一つ、
音色ひとつで、
その場にいたものは息をつめて動けなくなるくらいの衝撃を受けていました。

なんとも言えず、華麗。
なんとも言えず、激情。

それは、これほどの演奏があればかえって言葉は要らないほど。
胸に沁み、心に響くその音色はうたがないために聞くものの心次第でいかようにも受け取れるような、そんな音です。
名もなければうたもない演奏でありながら、弾き手自身を含めてそれはひとつの完成された芸術作品でした。


やがて最後の一音が発されて余韻が完全に消えた頃、快斗は思わず息を吐きました。
「すごいね、兄上、こんな曲は初めて聞きました」
興奮気味に感想を伝えながら快斗は兄の顔を覗き込みます。
こめかみに汗を伝わせた新一はひざの上の重みににっこりと笑いかけました。
「褒めてもらって嬉しい。ありがとう・・・」
その鮮やかな笑顔は快斗の中でいつまでも残りました。
父上、と振り返ったとたんに快斗は兄のひざの上で固まりました。

盗一が静かに頬を濡らしていたのです。
普段は物静かながら度胸が据わっており、快斗の知る限り怒声をあげたことも、ましてや涙を見せたことなど一度もない父でした。
それが今、堰を切ったように次から次へと流れ落ちる涙に、着物がしっかりとぬれていました。
「父、上・・・?」
快斗の声にようやっと自分を取り戻した盗一はぐいと頬をぬぐい、目頭を押さえて数秒間、そのままの姿勢でいました。が、やがて顔を上げると新一に向かってゆっくりと噛みしめるように言いました。
「良い、演奏だった・・・本当に良い音楽だった。ありがとう」
新一は黙って頭を下げました。その目にも光るものがあるのを快斗はみとめました。どこか、悲しげな、それでいて諦めに似た表情が二人とも良く似ていて、血が繋がっていないことは第三者の目ではしかとはわからないものでしょう。
二人の間には言葉以上の何かしらのやりとりがあったように、快斗には思われましたが・・・

二人はその後も阿笠の話や快斗の話などをつづけていましたが、快斗は先程の琵琶の音が頭から離れませんでした。
何度も頭の中で反芻し、絵のようにくっきりと映りこんだ兄の姿とともに思い出しているうちに、いつしか快斗は眠りに落ちていました。




*****



真夜中、快斗はふと目を覚ましました。隣には、今日会ったばかりの兄の姿がありました。そして兄の着物の袂を掴んで離さない自分の手。
なんとなく照れくさくなって手を離し、寝返りをうとうとしましたが、どうにも落ち着きません。そうこうしているうちに、兄が起きてしまったようです。
「眠れないのか?」
「・・・はい」
隣からかけられた声は先程眠りに落ちる前よりも少し低く感じられました。
「悪い夢でも見た?」
「いえ、なんとなくです」
「そうか・・・」
ゆっくりと手が伸びてきて、確かめるように髪の毛に触れ、撫でられました。慎重に、慣れない手つきながらも何度もそうされるうちになぜだか快斗は聞くつもりもなかったことを聞いていました。
「兄上は、どうしてあのような演奏ができるのですか」
言ってしまってからしまったと思いましたが一度出てしまった言葉は取り消せません。そんなことを聞かれれば、目が見えないのにもかかわらず、という言葉の裏を感じてきっと気分を悪くします。
「あの、違うんです・・・初めて聞いたんです、あんなすごい琵琶の音を。魂が震えるようでした…父上が泣くほどの琵琶で、驚いたんです」
必死になって弁解する快斗の頭を再び新一の手が撫でました。
「ありがとう…でも気にしなくても良い。俺は目が見えない・・・だからこそ授かった才とも思う」
言葉を切って、彼はしぼりだすようにつぶやきます。
「泣いて・・・おられたのか・・・」
はっとしました。今この瞬間泣きそうなのは兄のほうだとなぜだか思いました。
しかし再び兄が話し始めたときにはそのような弱った声音はもう消えていました。
「俺はたいてい耳で聞いて曲を覚える、だが、今日のように手が動いて弾くものもある」
耳で聞いて覚えるというのがまず驚きでしたが、その上あのすばらしい演奏がその場で兄の中から湧き出てきたものだということに更に驚きます。
「そのようなときは、周りの人の気持ちや俺の心が強く出ることが多い」
「?兄上は人の気持ちが読めるのですか?」
「いや…なんというべきかな。例えば、目の前に楽しくて仕方がない人がいると思ってみてごらん」
「…はい」
「その人の前で座していると、いろんなことが伝わってくる。話す内容や、声音、くすくす笑う気配、手足が動く様子…」
快斗にも覚えがあります。楽しいことがあったよと話すときの調子や、座ってはいられない、走り出したくなるような衝動。
「目が見えずとも、人の気持ちはそんな風にして推し量ることができる。むしろ敏感でないといけないのかもしれないな」
「では、今日は悲しかったのでしょうか?」
兄は言葉に詰まりました。気づかずに快斗は続けます。
「私は楽しかったのですが…兄上と父上は二人とも、悲しくて、それで泣いておられたのでしょうか?」
「…」
「兄上…?」
頭にあった兄の腕がそっと快斗の小さな背中に回り、快斗は血の繋がらない兄に抱かれていました。良い香りが衣からして、快斗はどきまぎして顔をうずめました。
「すまない、快斗…」
初めて、兄に名前を呼ばれた快斗は一瞬間をおき、慌てて答えました。
「いえ、こちらこそ、出すぎたことを申しました。ごめんなさい」
「いいんだ、本当に。…俺は、久々に父上にお会いして、なぜだか少々悲しくなったのだ。父上と母上が変わらず優しく、また思わぬ弟にまで会えて、これまでの会わなかった年月が悔しく思われたのかもしれない」
父上はそんな私の物悲しい様子を察して涙を落とされたのだろう、と兄は告げました。
快斗は得心がいったように思いましたので小さな手でぎゅっと兄に抱きつきました。
「また、こんな宴がしたいですね」
父とも、母とも違うその背中は半分もまわりませんでしたが、兄の心の慰めになればいい、と快斗は思いました。
十五夜の月はもう西の空に沈もうとしていました。


*****


翌日、新一は午前中のうちに再び巡業へと旅立っていきました。養父と養母に別れを告げ、名残惜しげな小さな弟の頭をなでると、持ちなれた杖をついてしっかりと階段を下りていきました。
別れ際に交わした約束は、いつになるのやら。



「ごめんな…」
見えないながら、もう遠く山中に霞む寺を振り返り、新一は呟きます。
彼は知っていました。
盲目の琵琶法師は、幼い弟には告げませんでしたが、死期の近い人間はそうと悟ることができるのです。
昨日、久しぶりに戻った家で、彼は養父の後ろに死の影を見たのでした。
父もそれを知っていのでしょう。
楽しく陽気にふるまった父。
けれども死を恐れることなく、その身のうちに迎え入れていた父。

ならば新一にできるのは、その魂を震わせることだけでした。
それこそ全身全霊をこめて琵琶をかき鳴らしました。
声にならない願いをこめて、
琵琶を介して引き留められるものならば、
養父の死の覚悟をしたその心をこの世につなぎとめられるものならば。
どれだけよかったことでしょう。
父という人間の芯の強さは知っているつもりでしたが、だからこそ死を受け入れたその強さを折ることは叶わなかったのです。
其れゆえの涙を、父はどう受け止めたのでしょう。

「さようなら、父上…」
新一はそれきり前を向いて立ち去りました。養父との永久の別れを覚悟して。








その後三人宴はそれきりもう二度と開かれませんでした。

















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(06/11/19)
完結です。しかし当初の予定では盗一がなくなった後、再会する快斗と琵琶法師新一の方がメインで、どっちかとうとこの話は導入編だったはずなんですが、力尽きた・・・(笑)
あと、最後の一文を入れるかどうかで一日くらい悩んでました。
悲しい…盗一好きなんです。彼は本編でもいつか出てくるとにらんでます。