紅い雪





掴めば消えてしまいそうな、薄く淡い色の雲。
眩しく輝く満月。
そこに、視界を埋めるほど、舞い散る紅。

目を閉じて。
開けて。

もう髪にも肩にも紅い花弁が降り積もり、まるで血の色をした雪のようだ。

手をかざせば風に舞い落ちる、紅い雪が指をすりぬけてゆく。





「名探偵…」
遠くからかけられる呼び掛けが、密やかに静寂に忍び込んできた。
どこか遠慮がちな、落ち着いた感じの声。

俺は目を開けることさえ億劫で、ただ一言、
「KIDか…」
ほんとに呟くように、そう言った。
聞こえたのか否か、気配がこちらに近付くのが判ったので、俺はようやく視界にやつの姿を捕え、軽く姿勢を直した。

怪盗を目の前にして椅子から立とうとしない探偵を不審に思ったのか、一歩、KIDは足を踏み出した。
また一歩、また一歩、紅を踏みしめて白い怪盗が佇む。

例えようもなく、美しい調和。


「なんか、用か…?」
俺がそう尋ねると、KIDは我に返ったように足を止めた。
間の隔たりはほんの数メートルしかない。
「名探偵、何をしているんですか」
静かにかけられた問いはやつの不審がにじみ出ていた。
そりゃ、春になったとはいえまだ肌寒いこの時間に、外で真夜中にコーヒーなんか飲んでたら不思議に思うのも当然である。
おまけに、俺は全身花びらを被っている。奇人とはいかなくても変人の類であることは間違いない。

口調に、何故か僅かに感じられる苛立ち。
「…何って?」
「そんな格好で…冷えますよ」
「お前…俺の母さんか何かみたいなセリフだな」
少し揶揄を含んだ口調でそう返すと、KIDは些か憮然としたようだった。
そして、溜め息をついて訊いてきた。
「…貴方の具合が悪いと聞きまして」
俺は黙った。

「貴方はもとに戻ってから高校、警察、探偵業とこれ以上ないくらいに活動的でした。私の現場に来てくれないのにはちょっぴり傷付きましたが。
事件中に倒れた、と耳に挟んで、心配して来てみたらこんな夜中にそんな薄着で外にいたりして。あの幼馴染みの彼女をまた泣かせる気ですか?」
立て続けに向けられる責め言葉。探偵が怪盗に心配されるなんて、前代未聞。
「…大きなお世話。お前には関係ないだろ」
小さく反論を返す。
「結構。…けれど、もう少し自分が周りに与えている影響を、考えて下さい。現場には来てくださらなくても良いですから、」
生きていてください。
KIDは下を向いた。



どこかで鳴っている、電話の音がやけにはっきり聞こえてきた。

KIDの言っていることは正しい。俺を心配してくれてもいる。良く判る…。


沈黙を破ったのは俺だった。
「お前は、なんかやることがあってそのカッコしてるんだろ? それを邪魔すんのも悪いかなって思ってな」
「え?」
唐突な言いようにか、内容にか、目をみはるKIDが新鮮で、少し笑った。


「半年」


風が紅を舞い上げる。


「あともって半年なんだって。俺の生命」



気が付いたら、放り出すようにそう告げていた。




目を再び夜空に向けて俺はコーヒーをすすった。冷めたそれは当然のことながら苦く、喉の奥に軽い刺激を与えていった。
そして佇むKIDに言葉をさがす。何かを言わなければならない気がした。

「俺はさ、今まで好き放題にやってきて、マスコミに騒がれて。今から思えばちょっといい気になってたんだと思う。当時はちっともそんなこと思わなかったけど、ほんとに。そんなときにちょうどコナンになった」
まさに、俺の人生の分かれ道だった。
「…コナンになってから、ずっと戻りたいと思ってた。けどコナンになって初めて、自分の大切なものとか、今までしてきたことが、どれだけ子供っぽい見栄とか虚飾に飾られていたかに気が付かされてさ。いろいろ反省、したんだ」
言葉を切る。こんなことを話すのはあまりないことだった。
相手がいなかった所為もあるし、内容自体が不安に満ちた秘密だったからでもある。

けれどなぜか、戸惑いはなかった。


「…もとに戻ったら、もっと違った生き方ができるって…」
うつむいて、すっかり細く、頼りなくなった手を見つめる。
大きさはもとに戻ったけれど、この手に掴めるものはほんの一握りのものでしかない。
それがわかるのに大変な回り道が必要だった。手のひらから簡単にこぼれ落ちてゆく花弁…。

「それが、」

ゆっくりと、手で顔を覆う。
自分が感情に流されようとしているのが判った。


「名探偵」


凛とした、清々しい気配。
呼び掛ける、声。
あの眩しく輝く満月のような。
明るく、優しく、夜道を照らす。


「皮肉だよな…」


声がどうしようもなく詰まって、そう呟くのがやっとだった。

皮肉としか、言いようがない。
もとの姿に戻ることは長い間の目的で、悲願だった。
組織のことももとの身体の方が数段都合がよかった。
ある少女の罪悪感を薄めることも出来た。
ただひとつ、劇薬の刺激を受け続けた身体が悲鳴を上げていたことを除いては、問題はなに一つないように思われた。


劇薬の効果をなくすのは、劇薬でしかない。


あれほど戻りたかった俺の身体は、どうしようもないほどぼろぼろになっていた。






「…俺は、余命を宣告されてから何回も考えたよ。俺が何かを遺せるとしたら何だろうって。死んじまったら何もない。無だ。それが、怖くなった」
おかしいなら嗤えよ、と自嘲の溜め息をはいた。

「少しもおかしくありません」
KIDの声が少し震えているように聞こえた。


確かに、俺はまだ生きている。けれど、自由にならない身体を引きずり、掴めない砂粒を必死に手の中に留めておこうとする今の俺は、
生きていると言えるんだろうか?



何度も何度も繰り返してきた問いが、重い。



俺は何を為した?
俺に何ができる?




「ずいぶん、考えた」

そして、何かを遺せるとしたら、変えられるとしたら、人の心の中にあると思った。

「俺ができるのは謎を解くことだけだから」

多くの謎を解き、多くの人と触れ合い、俺という存在を覚えていてほしかった。
頼りなく、歪みがちな人の心に俺がどう残るのかはわからないけれど、解き続けようと。

人は死んだら、心の中にしか生きられないのだから。

「お前の謎は、…俺は解くことができない。時間もないし、解いたところでお前の邪魔にしかならない」

顔を伏せたまま、そう漏らした。

「私の、謎?」

思いの外近くで聞こえた声に、顔を上げる。

もう手を伸ばせば触れられる距離に、天下の大怪盗が立っていた。


「私の秘密など、貴方に全て見せましょう」


その手が、ゆっくりと片眼鏡をはずす。


俺の目にとびこんでくる、怪盗の素顔。


ふ、と笑う瞳と視線が交わる。






片眼鏡をはずしたその顔は、俺に似ているようにも思われた。


そしてKIDはすい、と顔を寄せ、俺の耳元で囁く。

「…また来ますから」

KIDはにっこりと笑って言った。

「よろしく、新一」

















(2004,04,30)
なんだろ。続きもんの続きをかかないでまた新たなものを始める私。
ま、まあこれは5月4日記念なんで!!
また暗くなってしまったのは気のせい気のせい。

前後編になると思います。

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