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ほとんど願望のような未来の君へ

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ハリー・ポッターはその日、わずかに緊張した様子で大広間に立っていた。ホグワーツ特急が着くにはまだもう少し時間がある。ハリーはその特急で来ることもできたが、大勢の人に囲まれる前にどうしてもここに来たくなったのだ。

すべてはここから始まったのだから。

今年、ホグワーツは帝王が消滅した後ようやく再開した。ハリーはそこにDADAの教師として就任することになっている。もはや必要のない科目かもしれないし、そうなってほしい。けれどそれは収まりつつあるがいまだ断続的に活動を続ける帝王一派の残党のため、、もう少し先になりそうだ。
見上げたホグワーツの大広間は昔と変わらないまま大空を映し出している。
これが魔法によるものだと言った友達の顔を思い出して彼は小さく笑った。
そのとき茶々を入れたもうひとりの友と、笑う自分。ダーズリー家から離れて過ごす、大切な場所と大切な人。
会いたい人や、懐かしい思い出はすべてこのホグワーツにある。自分の家はここにある、とハリーは思う。
決して楽しいばかりの学生生活ではなかった。いつだってヴォルデモートの影を感じるような、波乱に満ちた7年間だった。たくさんのものを得た。そしてたくさんのものを失った。けれども今では、笑いあったしあわせな日々を懐かしく思い出すばかりだ。こうやって、経験は思い出になる。成長する。変わってゆく。かけがえのない日々を、大切にしまいこんで旅立つのだ。
生き残った男の子として、そして選ばれし者として、立ち向かった日々を思い出す。
脳裏によぎる人々の顔を思い浮かべてハリーは目を閉じた。

カツン、とどこかで足音が響く。廊下を歩く誰かの足音だ。
これとよく似た音を、どこかで聞いたことがある。
言うまでもなく学生時代の頃だ。夜中にホグワーツを歩き回るハリーにとって、この音は不吉以外の何者でもなかった。
カツン、カツン、カツン。
落ち着いて、それでいてどこか不機嫌そうに聞こえてしまうのはなぜだろう。
脳裏には黒いローブをはためかせて歩く姿が、無表情でしかつめらしい顔が、浮かんでいる。
カツン。
足音が止まる。背後の扉に、誰かがたっている。

「ポッター」

息を吐き出す。

「マルフォイ…」

元気かい、とその顔を見てハリーは付け加えた。ドラコ・マルフォイの白いブロンドの髪は少し乱れていたし、どこか疲れた表情をしていたからだ。長いローブはハリーと同じ、夜のように黒い色をしていた。彼もまたホグワーツの新任教師だった。たしか科目は…薬学。
「お前に心配されるとはな」
鏡を見ろ、と言い返される。…そんなにひどい顔をしていたのだろうか?
しかし学生の頃のようにそれ以上の応酬はなく、マルフォイはハリーの横にやってきて同じように天井を見上げた。
誰もいない大広間は、あと数時間で騒々しいざわめきに満ちるだろう。希望に満ちた瞳が、友達と笑いあったりくすくす笑いをしたりして、新たな生活を始めるのだろう。
平和な、しあわせな時間をここで過ごすのだろう。
それを想像したハリーはちくりと胸が痛むのを感じた。自らの学生時代に後悔はない。身近な人が何人も死んだけれど、そのことで自分を責めるのはもう止めにしたのだ。その代わり、彼らのことを決して忘れない。

このホグワーツに足を踏み入れたのは3年ぶりになる。7年生としてホグワーツで過ごすことはハリーの学年はなかった。闇の陣営との戦いで一番多くの犠牲を出した学年でもある。
ハリーは1年前、闇の帝王を倒した。最後は予言が示していたように一対一の死闘となり、辛くもハリーは生き残り、帝王は永久に消滅した。その最後の戦いがどのようなものであったのかはハリーは黙して語らない。ただ、そのために多くの人の死が積み重なっているということは事実である。
魔法界は帝王の死を知った瞬間快哉をあげた。少なくとも、生き残った男の子が再び奇跡を起こしたことを素直に信じた。彼がいつか成し遂げてくれると思っていました、と語る知らない人々の言葉を幾度も聴いた。
これほどまでに、自分が希望の象徴と見られていたことに、面映さと気後れとを感じる。そしてにっこりと自分に笑いかける罪のない子どもたちの目を見ると、帝王を倒すことができたのは僥倖だったと思った。
だけど、とハリーは思う。
決して、自分ひとりの力ではない。誰一人欠けていたって、同じ結末にたどり着くことはなかった。両親、シリウス、ダンブルドア、そして中でもあの背の高い、育ちすぎたこうもりのような、あの人が――
「………だな」
「え?」
傍らに立っていたマルフォイが何かをいったが深く思考に入り込んでいたハリーには良く聞き取れなかった。
「不思議なものだな、と言ったんだ」
マルフォイはハリーの上の空を気にした風もなく繰り返した。
「まさかお前とここで並んで立つことになるなんて、想像もしてなかった」
「…そうだな」
「杖を向け合ったこともあったのにな」
「そもそもスリザリンとグリフィンドールじゃ、仲が良いわけないじゃないか」
それもそうだな、とマルフォイは笑った。学生時代には考えられない笑顔だった。どこか痛々しい嘆きを秘めた顔だった。
「僕はあの頃…両親や取り巻き連中に囲まれた世界しか知らなかった」
「うん」
「全て自分の思い通りになると信じてたし、実際その通りに生きてきたんだ、だけど」
「…ああ」
「謝ることも、もうできないんだな…」
彼は誰に、とは言わなかった。あるいは関わったいろんな人に向けてかもしれなかった。
言葉にして語られることのない痛みをハリーは正確に感じ取った。未熟な魔法使い一人、無理難題を吹っかけて痛めつけるくらい『名前を言ってはいけないあの人』はなんとも思わなかったはずだ。あの偉大な老人が殺せるなんて、言った当人ですらかけらも思っていなかったに違いない。
それゆえに、当時6年生だったマルフォイの苦悩はどれほどのものだったのか、想像もつかない。そしてその時のハリーはそんな感情に少しも気づいてはいなかったのだ。『彼』の裏切りを目の当たりにして、ただただ何も考えたくなくて。恨め、憎め、そして殺せというメッセージの真意を知りたくなくて。
もしそれを考えることがなければ、もっと晴れやかな気持ちでここに立っていたのだろうか。
「…いや、違う」
「?」
怪訝顔をしたマルフォイには答えずに、ハリーは外に行かないか、と誘った。
外へ出たとたんに強烈な陽の光が二人の目を焼いた。思わず手をかざして光を遮り、そのとたんにハリーは既視感を感じて立ち尽くした。

しあわせだった、あの頃。
ロンやハーマイオニーがいて、ネビルがいて、クイディッチでグリフィンドールの優勝を狙った平和な日々。
笑い楽しみ、ハグリッドの笑顔とダンブルドアのきらきらした微笑とあのひとの意地悪そうな顔を横目に見ながら列車に乗り込んだしばしの別れ。

なんて、悲しく愛しい思い出なんだろう。
これがどうして過去なんだろう。どうして彼らは今ここにいないんだろう?

「ポッター…?」
いぶかしげなマルフォイの声にも、頬を伝う流れは止まりそうにもなかった。
「ごめん…なんだか、止まらなくて」
平和なホグワーツを眺めているのに、それは確かに復活させたかった光景なのに、その何一つ変わらないような景色がハリーの胸を締め付けていた。
「しっかりしろよ、教師の癖に」
マルフォイの突き放したような口調が今はありがたい。英雄と呼ばれたくないのは今も昔も変わらない。
「もうすぐ生徒がやってくる…出迎えの指揮は僕がやるから、お前は顔でも洗って出直して来い」
遠ざかる足音がカツン、と硬質な音を立てる。

思い出は、もう戻ってはこない。

「マルフォイ」
「なんだ?」
振り返ったかつてのライバルにハリーは笑った。
「ありがとう」
「…らしくないことを言うな!」
謝らなくてもいいんだと伝えたかった。きっとあの老人は怒ってなどない。そして彼もまた、教え子が生き延びたことで喜びこそすれ恨みなど抱きはしないだろう。
マルフォイが歩んだ道のりはある意味、帝王の死のために必要なものだったのかもしれないのだ。
すべての物事には意味があり、それらはそれぞれの人生に深く浅く関わって大きな流れとなってゆく。
運命に立ち向かうこと、そして自らの力で運命を切り開くこと。
そうして得た現在に生きているのに悲しいのは、たぶん失ったものが大きすぎたせいだろう。
誰もがそんな痛みを抱えながら生きてゆく。例外はない。悲しみや痛みがあるからこそ、しあわせな時間は輝くのだ。

――生きろ。

「わかって、ます」
前を行くマルフォイの姿がどんどん進んでゆく。
ハリーは黒いローブを翻した。





↑Re


2007/07/21
7巻が届く前に。
彼とか、誰の台詞なんだとか、それは補完でよろしくお願いします…