時を止める。これが魔法以外の、なんであろうか。
哀 姫
まだ夜も明けないうちに、大きな時計塔の最上階、街を一望できるところで、阿笠は大きく息をついた。
この年ともなると階段を上るのがつらくなる。若いころはそれでも毎日のように上り下りを繰り返していたのに、だ。
「年はとりたくないのう」
はあ、と最後の息を吐いて彼はよろよろと腰を下ろし、もってきた大きなかばんをそっと横に置いた。中に詰まっているのはこの時計塔の主たる大きな時計の具合を見るための道具が一式。だが、まずは腹ごしらえだ。
道具セットの横にある風呂敷に包んだ中には昨日の残り物が数点と、焼きたてのパンが2つほど。近所に住む青年からの差し入れだ。彼が幼いころから阿笠は彼の面倒をよく見てやっていた。本当の息子のように可愛がり、大きくなった青年のほうも、今でもちょくちょく遊びに来てくれる。こうして毎朝のパンを理由に、顔を見に来てくれているということを阿笠は知っている。
ほのかなパンの温みを惜しむように咀嚼しながら、魔法瓶に詰めたスープを飲んでいると、じりじりと東の地平線から太陽が顔を見せ始めた。
この瞬間が阿笠にとってひどく喜ばしい瞬間だ。
下の街よりもほんの少しだけ早く夜明けを迎える場所で、阿笠はたった一人、身動きもせずに光をみつめた。
日々の細かな問題や、時折煩雑にも思える人間関係や、うまくいかない自分の思いつきの結果など。
嫌なことをすべて、この清浄な朝の空気が洗い落としてくれるような気がしていた。
心の奥のほうから、感謝の念が湧き上がってくる。
この街に生まれて、本当によかった。
そして、この時計塔があって、本当に。
「…良かったわい」
ずず、とスープをすすり、それが冷えていることに気がついたのは、すっかり日が昇ってからだった。
簡単に食事の後片付けをし、彼は荷物を持って階段を下りた。大きな鐘が中央に鎮座するそこには、小鳥の先客が何羽か。もう一度荷物を置くと、彼は鐘の下へと回った。
古めかしいつくりの床板の一部をあければ、そこには大きな時計を動かす魔法のすべてが詰まっていた。
大きな歯車が一部のすきもなく絡まり、お互いを動かしあっている。小さなそれの仕組みを知っていても、この大きな仕掛けが一度もとまることなく動き続けていることに阿笠は軽い感動を覚える。
何せ、この時計は阿笠の祖父の代からあるという代物である。
小さな微調整を入れつつも、毎日のように定時に鐘を鳴り響かせ、街の人々の生活を規則正しいものにするのだ。
街中を歩いていると、時刻を知るために時計塔を見上げる人の姿をよく目にする。
些細なことだろうと、人々の生活の礎の一端を担っている自負に阿笠は笑みを浮かべる。
「わしも年だが、お前さんも年だの」
年寄り同士、もうしばらくは仲良くやっていこう、と今日も異常なしの時計を眺め、彼はうなずく。
そしておもむろに身体を内側に滑り込ませた。
そろ、と足をつける。狭いが足場が組んであって、阿笠は一息ついた。
あまりにも大きな時計がゆえに、下のほうの歯車の調子を見るにはこうして時計の中にまで入り込まなければならないのだ。聞こえてくる音たちはどれも正確に、慣れ親しんだリズムで動いている。
開けてある板の部分からの光しかないので中は暗いが、慣れた足取りで阿笠は時計の中を下っていった。
時計の中。そう、初めてここに入らせてもらえたときはあまりの興奮に我を忘れてしまうほどだった。
父から時計職人のあれこれをすべて学び、最後の仕上げとしてここにつれてこられたときの感動は今でも鮮明だ。
…この大きな仕掛けの、内部にいる。
それだけでなんだか魔法にかかったような、不思議な気持ちになったのだ。
「今日は、会えるかの…?」
ひとりつぶやいて螺旋階段を下る。長くもないそれはやがてひとつのドアに行き着いた。とってに手をかけ、力を込めて引くと――
目の前に空が広がっていた。
文字盤で言うと「5」と「6」の間くらいだろうか。小さな窓がそっと開いて、阿笠はちょうど短針の下に顔を出していた。さっきよりも高く太陽が上り、彼の目を射る。それでもまだ西の空には月が残っている時分のはずだ。
この街で、毎朝のように日の出を拝む阿笠だけが知っている秘密がある。
たぶん自分以外の人間は気がついてはいないのだろう、と思う。
――満月の日の夜明けは、この街には来ないということを。
なぜかはわからない。吸い込まれるように輝く満月の晩は、この街が普段でなくなるのだ、ということだけを知っていた。
そもそも毎日規則正しい時間に起床する阿笠が、その朝に限っては目覚めることができないのだ。実際、阿笠は何度も試していた。だが、真夜中が近づくにつれ抗いがたい睡魔が襲い、目がさめるのは朝の5時の鐘によって、だった。すでに太陽は上ったあと、阿笠の「日課」は果たされたためしがなかった。正確に、満月の日の夜にだけ起こる現象だ。
阿笠は判っていた。これは、「魔法」だ。まだ古い時代、そしていまでもごくごくわずかな人が密かに継承し続けている能力のうちのひとつである。
いったいどんな魔法が行われているのかは想像もつかない。けれども阿笠が生まれ育ったこの街に、魔法が生きている――そう考えると、新しい物好きの彼の心はわくわくと弾む。その点では彼は少年と少しも変わらない。
そして、もうひとつ。
「…」
ゆっくりと後ろを振り返り。
そこに誰もいないことを知って息を吐く。
ここで出会うはずもない人間…年をとらない子供の姿を求めて。
それは不思議な少女だった。
阿笠が少年のときにはじめてみて以来、姿かたちがかわったことはない。
6、7歳ほどの白い服の可愛らしい女の子。いつも肩口ほどの、赤茶らしい髪の毛を揺らしてこちら
をじっと見詰めている。そして目の錯覚か、とよく見ようとすると消えてしまうのだ。近くで見たこ
とも、声も聞いたことのない少女は、阿笠が知っている限り40年ほどの間変わらない姿のままずっ
と時計塔にいるのだ。
おそらく彼女は「魔法」の一部なのだろう、と彼は思う。
彼女の存在自体が魔法による副産物なのか、それとも?
もうかれこれ40年になる。阿笠が年をとる一方で少女は変わらず時計の中に住み続けている。
父も祖父も、少女を見たのだろうか。
阿笠は後継者のいないわが身を思った。
少女がいったい何を考え、こちらを見るのか、阿笠はそれが知りたかった。
もしかして、阿笠と同じことを考えてやしないだろうか?
一度でいいから話がしてみたい――などと。
無表情な彼女の顔に、そんな希望観測を持って心を見出そうとすることに、意味はないのかもしれな
いけれど。
阿笠と少女の間にはちょうどひとつずつずれた螺旋階段のような距離がある、彼は思う。つかず離れ
ず、手は届かないけれどお互いの顔がわかるくらいの近さで、二つの螺旋はぐるぐると回って永遠に
交わらない。少なくとも彼のほうへは声も届かない。…それではあまりにさびしいではないか、と。
40年という長い間、彼はそう思いながら時計の中の階段を回り続けてきた。
そして、今日もまた。
何も応えが返らないことを知っていながら、阿笠は誰もいない時計の内部でお決まりの言葉を口にす
る。
「哀くん、また明日な」
彼が少女につけた名前は、「哀しそうな女の子」だった。
「愛」も可愛くていいと思ったけれど、少女の持つ雰囲気に、こちらの方がぴったり来る気がしたの
だ。アイという響きを彼は気に入っていた。
幻覚かもしれない少女に名前をつけ、挨拶をして帰る自分はおかしいのかもしれない。
それでも、彼はやめようとは思わなかった。
少女が幽霊であれ、魔法であれ、自分の作り出した幻であれ、それでも彼は話がしてみたいと思って
いる。それで十分ではないか。そう、鼻息荒く彼は考える。
たん、と最後の段に足をつけたときに、阿笠は信じられない音を聞いた。
『ええ…また、明日』
少女の声。
小さな、どこかかすれたような声。
振り向いた彼の目に、暗い螺旋階段の一番上に立つぼんやり光った少女の姿が飛び込んできた。
阿笠が声も出せないでいるうちに、少女は無表情な顔をわずかにほころばせて、笑った。
つられて、阿笠も微笑み返す。
…そして、街に鐘が鳴る。
(06/01/21)
っふぅ。懐かしの掌シリーズ、お届けいたします。
はたして誰か覚えていてくれるんでしょーか?(ならさっさと書けよ)
…う、それが遅筆の辛いところなんです。ごめんなさい〜!
張りすぎた伏線に自分が引っかかっているのが現実です。(笑えない…)
はい、気を取り直して解説をば。
今回は「空の上」では名前も出てこなかった阿笠さんの登場です。
彼は人間サイドです。そして少女は哀ちゃん。ばればれですね。
(原作でも「灰原哀」って名前は彼らがつけてるんですよね)
とりあえず、40年も言葉を交わさないってどないやねん(びし)
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