どう生きていけばいいのか分からずに、
ただ俺はそこにいた。
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「迷子」
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仕事場から自宅にしているアパートの一室までの道のりは遠くない。むしろ、近い。走っていけば5分とかからない距離だ。
普段ならば意識もしないような道のりで、だからこそ油断があったのかもしれない。
この街は平和なわけではないのだ。
ずっと育ってきたからそのことは身体に染み付いていたはずだったのに。
俺は思いも寄らぬ形で今の生活に別れを告げることになった。
「・・・?俺・・・」
後頭部が痛い。ずきずき痛む頭と揺れの多い荷台との相乗効果で、俺は気分が悪くて仕方がなかった。
起き上がることもできずに寝転んで暗い天井を見上げて、しばらくぼおっとしていた。
ゆっくりと、記憶が戻ってくる。
・・・そうだ、俺は帰る最中に後ろから・・・
誰かが近寄るのを感じて振り向いた瞬間、棒のようなもので頭を殴られた。
一瞬意識を失い、気がついたときには街はずれに向かって引きずられていくところだった。
相手は俺が気絶している、もしくは死んでると思ったんだろう、その隙をついて俺は一目散に逃げ出した。
頭が痛くて・・・長い間は走れなかった。逃げ足の速さでは自信があったけれど、逃げ切る自信はない。
だから。ほんのちょっとだけのつもりで入り込んだトラックの荷台で。
俺は今まで寝ていて、気がつかないうちに出て行っていた、ということなのかもしれない。
あの街から。
一生あそこで終わるんだと思っていた、あの街から。
幌がばたばたいう音はするが、荷台の中は薄暗いままだった。
俺の思考もだんだんと、薄紙をはがすようにクリアになってゆく。
やがて俺の乗ったトラックは速度を落とす気配だ。
荷物の中に挟まれて、俺は静かに身を起こした。運転手に見つかれば、それこそ密航してきたと思われるか代金を要求されるかだろう。十分にスピードの緩まった頃を見計らい、飛び降りるつもりでほろをそっと持ち上げる。
とたんに明るい陽の光が目を焼いた。
反射的に目を瞑るが、やがてそろそろと開けてみる。
流れる景色に、目を見張った。
緑の畑。
流れる川。
雲が流れる、高い空。
それらは砂の街しか知らない俺にとって余りに強烈だった。
話にしか聞いたことのないそれらが次から次へと視界の端へ流れていくのに、俺は呆けたように見入っていた。
ここは、あの街ではない。
このカラフルな世界はなんだ。
知らない。
知らない。
やがて車は徐々にスピードを落とし、やがて街中に入ったようだった。
飛び降りるつもりがすっかり勢いをそがれた俺はただ荷台にうずくまり、与えられた情報量の多さにひたすらぼんやりとしていた。麻痺したような頭で、幌の外から聞こえてくる人々の生活音を聞いていると、街のそれとあまり変わらない。
だが活気と陽気さに満ちた空気は明らかに昨日までいた街のそれとは違った。
少し、怖かった。けれどもここは早く降りなければならない。
震える足で落ちるように荷台から降り立った俺は、余りの眩しさに立ったままくらくらと立ち尽くした。
目の前に広がっているのは、どこまでも青く広く、大きな、とても大きな、海、だった。
それまではただの知識だった。
この街が砂に囲まれているように、水で囲まれた海という場所があると。
海の前では自分がどれだけちっぽけな存在かがわかるんだ、と。
俺は今、はじめてその意味を悟った。
――確かに、海の前では俺は矮小な存在だった。
「おい!そこの細っこいの!さっさと手伝えよ!」
「へ?あ・・・」
「仕事だろーが!」
かけられた声が自分に対するものと気がつくのに少し時間がかかった。
違う、という前にほらと荷物を手渡されるので勢いでそのまま受け取る。周りを見れば似たように荷を運ぶ男の姿があ
って、俺もそのまま力をこめて荷物を運んだ。なにをしていいのか判らなかったためでもあるが、とにかく身体を動かしていたかったのだ。
つんであった大量の荷を運び終わった頃には全身汗をかいていた。
さっき俺に仕事をしろと指示を出した親父は荷を運んだ奴らに現金で支払っていた。
俺も、もらった。
しわくちゃの紙幣は街のそれとは少々異なる柄だったが、俺にとってはそれよりもお疲れさんという明るい労いの言葉のほうが、嬉しかった。故郷ではかけられたことのない言葉だ。体力がなく、すぐに身体を壊して寝込む俺はどちらかといえばため息や拳骨の方になじみがある。それが恥ずかしくて情けなくて、だからいつも下を向いていたのだ。
ここはあの街ではない。
そのことがだんだんと身体の奥の方まで浸透していくのがわかる。
街ではない。港だ。どこにでも行ける出発地点だ。
叫びだしたいような衝動が俺を襲った。
明日からどこへ行こう?
今夜どこに泊まろう?
ああ、俺は今から、なにをしよう?
何一つ決まってはいなかったが、俺は確かに自由だった。
砂の街は今まで俺を育ててくれたが、俺を縛っていたものでもある。
俺はずっとそこから飛び出したかった。叶わないと思っていた、子どもの頃の他愛もない夢のうちのひとつだと。
もう、諦めていた。そして夢を見ていたことすら忘れた。
そうしなければあの街で、額に汗して、軋む身体を抱えて、頭をたれつつも生きてゆけはしないのだ。
だがそれは自分の本性ではなかった。
出てゆこうと考えることすら愚かと蔑む暮らしを、閉鎖された世界を、いつか自分は厭いそこから抜け出そうとしていただろう。
きっと、そうだろう。
では、これから何をしよう?
決まっている。生きるのだ!
終
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2007/10/10
もはや彼は迷子ではない。
彼=快斗あたりをイメージしてました。でもなんとなく一人称に。